アウシュビッツ
2006年 06月 26日
ポーランドに行った第一の目的は、アウシュビッツを訪れることでした。
前にも書いたけれども、私が戦争とか人権とかに興味を持ったきっかけは、
小学校5年生のときに担任の先生が、50年前に
アウシュビッツであったことを教えてくれたことでした。
ヨーロッパにいるうちに、絶対に訪れたかった場所でした。
アウシュビッツは、クラクフという世界遺産の街から電車で、
1時間半くらいの、オフィシエンチムという街にあります。
ひっそりとした住宅街を歩いていくと、広い駐車場が見えてきます。
その奥に、国立アウシュビッツ博物館があります。
入場料は無料で、ガイドツアーなどに参加するとお金がかかります。
そこは、第一アウシュビッツと呼ばれ、
収容所だった建物の中に展示物が並べられています。
「働けば自由になる」とドイツ語で書かれた入り口。
実際は、「死ぬまで働かされた」
毒ガス、チクロンBの入っていた空き缶。
ガス室に入れられた人たちのかけていた眼鏡
ユダヤ人たちが持ってきたスーツケース
山のように積まれた靴
囚人服
「死の壁」 銃殺が行われていた場所
壁のある場所の隣にある建物の窓はつぶされていた。
ガス室
第一アウシュビッツから数キロ離れたビルケナウという場所に、
第二アウシュビッツと呼ばれる収容所があり(無料バスが出ています)
そこでは、建物内も当時そのままに残されています。
死の門と呼ばれた門。
線路。
有刺鉄線
バラック。
囚人たちのベッド。一つに5~6人が寝ていた。
時々崩れるので、上のほうで寝ることが大事だった。
トイレ。衰弱しすぎてこの穴に落ちてしまう人もいた。
一度に2000人が用を足していた。
離れ離れになった家族が唯一再会できる可能性があった場所。
破壊されたガス室。
ガス室に行く前には、シャワーで体を温め、
体をふやかし、早く体に毒が回るように計算されていたそう。
焼却炉に入りきらなかった死体はここで焼かれ、
ここに捨てられた。この池は「死の池」と呼ばれる。
慰霊碑。
ビルケナウを歩いてみて感じたのは、とにかく「広い」ということでした。
第一第二合わせて、150万人が殺されたそうです。
こんなに広いのに、他にも収容所が存在し、
まだまだ増やそうとしていたという事実に怒りを覚えました。
バングラデシュで多くの貧しい人たちを見たときの気持ちに似ていました。
広島の原爆ドームも、世界遺産に登録されています。
アウシュビッツや原爆ドームなどの世界遺産は、
「人類の負の遺産」として認識されています。
ただ、原爆とアウシュビッツは、同じ負の遺産でも、
全く性質が違うもののように感じました。
「人が殺された」ということには違いはないけど、
ここの方が「人が人を殺した」という要素が強く、
しかも、特定の人が集められて、一瞬にではなくじわじわと殺された。
殺したり、死体の処理をしたりした人たちの心理状態は一体どうだったんだろう。
きっと機械のように何も感じないようになってしまっていたんだろう。
自分を守るために。
もし一度何かを感じたら、おかしくなってしまうから。
彼らは加害者であると同時に被害者だったんだと思う。
一緒に言った友達と後から話をしたときに、
私が「どうしてここまでになってしまったと思う?
どうして、ヒトラーはユダヤ人を憎んだんだと思う?」と言うと
友達は「嫌いな人はいる?」と聞きました。
「うーんと、いると思うけど、でも殺しはしないよ。」
「憎いと思って殺してしまうか、そこで思いとどまれるか、
それが大きな違いなんじゃないかな。」
5年生のときは、かなりの衝撃で、
「ひどい、こんなこともう起きてほしくない」と
過去の事実として捉えていた覚えがあります。
でも、このようなことは今でも起こりうること。
私たちは、何をすべきなのでしょうか。
写真は撮るかどうか迷いました。
ここで人が殺されたから。
でも、撮ることに決めました。
忘れないために。
他の人と一緒に考えるために。
同じようなことを起こさないために。
前にも書いたけれども、私が戦争とか人権とかに興味を持ったきっかけは、
小学校5年生のときに担任の先生が、50年前に
アウシュビッツであったことを教えてくれたことでした。
ヨーロッパにいるうちに、絶対に訪れたかった場所でした。
アウシュビッツは、クラクフという世界遺産の街から電車で、
1時間半くらいの、オフィシエンチムという街にあります。
ひっそりとした住宅街を歩いていくと、広い駐車場が見えてきます。
その奥に、国立アウシュビッツ博物館があります。
入場料は無料で、ガイドツアーなどに参加するとお金がかかります。
そこは、第一アウシュビッツと呼ばれ、
収容所だった建物の中に展示物が並べられています。
「働けば自由になる」とドイツ語で書かれた入り口。
実際は、「死ぬまで働かされた」
毒ガス、チクロンBの入っていた空き缶。
ガス室に入れられた人たちのかけていた眼鏡
ユダヤ人たちが持ってきたスーツケース
山のように積まれた靴
囚人服
「死の壁」 銃殺が行われていた場所
壁のある場所の隣にある建物の窓はつぶされていた。
ガス室
第一アウシュビッツから数キロ離れたビルケナウという場所に、
第二アウシュビッツと呼ばれる収容所があり(無料バスが出ています)
そこでは、建物内も当時そのままに残されています。
死の門と呼ばれた門。
線路。
有刺鉄線
バラック。
囚人たちのベッド。一つに5~6人が寝ていた。
時々崩れるので、上のほうで寝ることが大事だった。
トイレ。衰弱しすぎてこの穴に落ちてしまう人もいた。
一度に2000人が用を足していた。
離れ離れになった家族が唯一再会できる可能性があった場所。
破壊されたガス室。
ガス室に行く前には、シャワーで体を温め、
体をふやかし、早く体に毒が回るように計算されていたそう。
焼却炉に入りきらなかった死体はここで焼かれ、
ここに捨てられた。この池は「死の池」と呼ばれる。
慰霊碑。
ビルケナウを歩いてみて感じたのは、とにかく「広い」ということでした。
第一第二合わせて、150万人が殺されたそうです。
こんなに広いのに、他にも収容所が存在し、
まだまだ増やそうとしていたという事実に怒りを覚えました。
バングラデシュで多くの貧しい人たちを見たときの気持ちに似ていました。
広島の原爆ドームも、世界遺産に登録されています。
アウシュビッツや原爆ドームなどの世界遺産は、
「人類の負の遺産」として認識されています。
ただ、原爆とアウシュビッツは、同じ負の遺産でも、
全く性質が違うもののように感じました。
「人が殺された」ということには違いはないけど、
ここの方が「人が人を殺した」という要素が強く、
しかも、特定の人が集められて、一瞬にではなくじわじわと殺された。
殺したり、死体の処理をしたりした人たちの心理状態は一体どうだったんだろう。
きっと機械のように何も感じないようになってしまっていたんだろう。
自分を守るために。
もし一度何かを感じたら、おかしくなってしまうから。
彼らは加害者であると同時に被害者だったんだと思う。
一緒に言った友達と後から話をしたときに、
私が「どうしてここまでになってしまったと思う?
どうして、ヒトラーはユダヤ人を憎んだんだと思う?」と言うと
友達は「嫌いな人はいる?」と聞きました。
「うーんと、いると思うけど、でも殺しはしないよ。」
「憎いと思って殺してしまうか、そこで思いとどまれるか、
それが大きな違いなんじゃないかな。」
5年生のときは、かなりの衝撃で、
「ひどい、こんなこともう起きてほしくない」と
過去の事実として捉えていた覚えがあります。
でも、このようなことは今でも起こりうること。
私たちは、何をすべきなのでしょうか。
写真は撮るかどうか迷いました。
ここで人が殺されたから。
でも、撮ることに決めました。
忘れないために。
他の人と一緒に考えるために。
同じようなことを起こさないために。
by kanapyon_814
| 2006-06-26 23:49